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ダキニ(黒魔術の系譜)

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ダキニという女神がデカン高原の森に住む。ジャッカルの精から生まれたダキニは人の心臓を食べて生きながらえてきたという。上がその写真であるが、これまで確認できたのはこの彫像のみである。

ダキニについては、以前、「デカン高原太古の森」の第三章「ダキニのルーツか?」 でも紹介した。このページの文章を少し引用し、ダキニの紹介をしておきたい。

「ダキニ(ダキーニー)というのは殺戮の女神カーリーの侍女といわれる悪鬼の一種で、仏教説話にも登場する。もともと生きた人間の肝や肉を食べていたのが、ブッダに諭されて以後、死んだ人間のものだけを食べるようになる。そして同時に、誰がいつどこで死ぬかを予言できる能力を身につけたとされている。」

ダキニはまた、大黒天(シヴァ)から、「人肉ばっかり食いやがって。俺がお前を食ってやる」と恫喝され、その手下になったともされている。ダキニはこうして仏教(密教)における神(天部)として取り込まれ、やがて日本にも伝えられることになる。しかし、先を急ぐ前に、インドにおけるダキニの姿を紹介しておきたい。

ダキニは日本では比較的知られるインドの神であるが、本場インドでは、逆に無名である。彫像があまり見当たらないのはそのためだが、一般インド人に「ダキニなんて知らない」と言われたことが何度もある。

ダキニがジャッカルの精であることはすでに書いたが、ジャッカルとはどんな動物だろう。基本的には犬、あるいは犬の祖先のような存在で、虎などの食い残しを食べるというから、ハイエナに近い。インドにはハイエナも住むようだが、彼らはある意味、森の寄生虫であり、嫌われ者である。そんなジャッカルの嫌悪すべき特性からダキニは生まれたのである。

出身地はデカン高原(あるいはベンガル、ビハールに近い辺り)。おそらくはドゥルガーの出身地と重なるような場所だったと想像できる。そしてその母体となったのは、この辺りに今なお数千万人単位で居住する先住民のある一族であったはずである。

上の写真とすぐ下の写真はともにデカン高原、ナルマダ川源流の聖地アマルカンタク。周辺の森は今も先住民の領域であり、不可思議な世界が広がる原生林の一角である。英国統治時代、アマルカンタクを往来する巡礼たちの命を狙ったサギー教団という謎の秘密結社が横行していた場所にも非常に近い。サギー教団は、仕留めた巡礼の遺体をカーリー女神に生贄として捧げたが、ダキニ崇拝もまた、その流れの中にあった。

デカンの森はあやしく神秘的である。 人々と動物、そして精霊や神々が網の目のような複雑な関係の中で息づいている。そうした世界にあって、大地の女神たちは人々に生贄(ときに人間の…)を求め、見返りとして、さまざまな恩恵を授けるようになった。

(サギー教団については「殺戮の女神カーリー」ですでに触れました。アマルカンタクについてはサドゥの写真集「サドゥ 小さなシヴァたち」にも登場します)




ダキニ崇拝はデカン高原からガンジス川の岸辺にも及んだ。この女神を伝えたのがどのような人々であったのかは分からない。いずれにしても、ダキニはこの岸辺でシヴァ神に出会い恫喝され、その手下となる。殺戮の女神カーリーの侍女となるのはさらに後年のことだと思われるが、それらの出来事はいずれも社会の裏側で起きたことであり、真相は謎である。

社会の裏側とはどんな風景の場所だったのか?一つだけはっきりしていることがある。そこには死体があった。ダキニは死肉、とりわけ人肉を食べることに執着していたのだから、おそらく墓地であったり、あるいは火葬場であっただろう。そこは尸林(しりん)と呼ばれる場所である。

尸林がインドの宗教に及ぼした影響は計り知れない。若き日のシヴァが悪鬼たちを引き連れうろついた火葬場もまた尸林である。殺戮の女神カーリーが生まれたのもまた尸林であるだろう。

社会からはみ出したアウトサイダーたちが火葬の火を見つめ、放置された死体が腐敗し、白骨化していくのを瞑想した舞台でもある。修行者たちはそこで瞑目しながら、輪廻転生の世界に想いを馳せた。尸林は地獄世界の視覚的ルーツでもある。尸林を直視することから、人々はそこから逃れようとして、解脱や悟りといったインドの根源思想を生み出したと想像できる。

尸林こそがインド思想の裏の舞台である。そこにダキニの姿もあった。

シヴァやカーリー、あるいはダキニといった神々はおそらくこれらを信奉する集団のシンボルであったと思われるが、すでに書いたように、すべては謎である。いずれにしても、常人では決して耐えられない環境の中で、死臭にまみれて苦行を重ねた修行者たちがいて、彼らを中心にシヴァ派の母体が成立した。時期は不明だが、少なくとも3000年前か、あるいはそれ以上にさかのぼる。

(下の写真は死者たちの聖地ヴァラナシの火葬場マニカルカガート。一日中、火葬の火が舞い上がる。今なお中世の雰囲気を残す異郷でもある)




シヴァ派が確立したのは早くても2000年前だが、その萌芽はそのずっと昔からあった。

サドゥ本に多く登場するナガサドゥの歴史は軽く三千年は超えるだろうが、それとは一線を画した集団がおそらく別にいた。

その集団は髑髏を手にして尸林をうろつき、夜な夜なあやしげな呪術に熱中していた。その流れを汲む一派として、6世紀頃からカーパリカ派(頭蓋骨を首に下げているものの意)の名が現れ、さらに11世紀になって、聖人ゴーラクシュナートを祖とするナートが登場し、さらに、その親戚である人食いアゴーリサドゥが一家を成す。これらはすべて同じ流れを汲む者たちだが、ここから生み出されたのが(厳密な意味での、つまり黒魔術としての)タントラ思想であり、また、ヨーガの体系にも大きな影響を与えた。

これらの集団や思想は、インド思想のどん底を流れる地下水脈であり、インド黒魔術の継承者でもある。シヴァやその神妃である女神たちの恐ろしい局面を、もっとも正確に伝えてきたのも彼らであり、ダキニもまた、その伝統の中で細々と生きながらえてきた。

(ナート派およびアゴーリ派はサドゥの写真集「サドゥ 小さなシヴァたち」にも登場します。ナート派に関しては、名前の最後が○○ナート(ババ)となっているサドゥがいわゆるナート派サドゥです)




一方、仏教に取り込まれたダキニは密教の天部(仏たちより下層の神々)として日本にも伝えられた。

天部たちは門外不出の秘密の神々としてしばらく寺の中に封じ込められていたが、一部の僧侶がこれを外部へと持ち出した。表向きは下層の神々であった天部たちだが(彼らは仏法の力に敗北したことになっていた…)、内に秘められた強烈な呪術エネルギーは健在であり、これが破戒僧から(ときには宗教ビジネスの広告塔として)狙われ、一般社会へと流れ出した。誰もが知る弁天様(サラスヴァティー)もその一つであった。

時を同じくしてダキニも流出した。荼枳尼天(だきにてん)を祭る神社が今でも日本各地に見られるが、ダキニはまた、別の姿として日本全土に定着した。それがお狐さん、お稲荷さんである。その事情についてはすでに「日本にもいるインドの神様」で書いた。

(上と下の写真はお稲荷さん信仰の本拠地、京都の伏見稲荷)

簡単に繰り返す。ダキニはジャッカルの精であることはすでに書いたが、日本にはジャッカルがいない。しかし、似たような動物がいた。それが狐である。狐はすでに霊的な動物とされていたようだが、これにダキニのあやしげな特徴が加えられ、お稲荷さん信仰として確立されたという。狐は穴に暮らす動物であるが、これが冥界への謎の通路と考えられたのだ。

以上が一般的な説だが、これに荼枳尼天(ダキニ)を信奉する謎の黒魔術である「真言立川流」を加えると、話はさらに込み入ったものとなる。

「真言立川流」は性魔術を駆使する異端宗教として江戸時代に殲滅されたが、その実態は今も謎である。その性魔術には髑髏が使用されたというから、これはまさしく、人食いアゴーリと同じ伝統である。「真言立川流」は、その性魔術がことさら強調されたことで、逆に真相が覆い隠されてしまったような印象があるが、その背景にあったものは、インドと同じく尸林(しりん)の宗教であり、これを経験することで、日本の宗教は大きく変貌し、独自の成長を遂げた。

日本における尸林の宗教は大きな広がりを持っていたと想像される。「真言立川流」はそのすべてではない。

たとえばアニメ「一休さん」で有名な一休和尚。彼もまた、杖に髑髏をくっつけて京都の街を練り歩いている。一休和尚は不邪淫の戒めを破っているからこれは破戒僧というよりむしろ日本のアゴーリー僧である(死体を食べたかどうかは不明だが…)。

一休和尚と関連するものとして、白骨観(不浄観)という修行がある。河原などに打ち捨てられた死体を、これが朽ち果てていくまで観想するという非常に不気味な修行である。修行者はこの世の無常とあるがままの現実に向き合うことで、さらなる内面的な境地を目指した。

中世日本には、数多くの尸林があったが(当時の処刑場であった河原も含めて)、そこは文化のどん底であるばかりではない。ある意味、インド以上に多くのものを生み出している。たとえば京都で言えば、日本庭園、能、歌舞伎などの文化が尸林、あるいはそのすぐそばから生まれている。京都でもっとも有名な観光地である清水寺から鴨川にいたる坂道、つまり現在、東山と呼ばれるあたりは、中世のある時代には、強烈な死臭が漂うこの世の地獄、つまり尸林であったとされている。




ところで、日本における尸林の原点はどこにあるのか?誤解を恐れずに言えば、それは稲荷神社の総本山である伏見稲荷にあるのではないか。

稲荷山を巡る「お山めぐり」は京都における最大のミステリースポットである。

広大な山域のいたるところに聖所があり、赤い鳥居と狐の像と塚と呼ばれる巨岩が乱立する光景は限りなくあやしげだ。赤い鳥居については江戸時代に一般化したとされているが、稲荷山巡礼の歴史は平安時代にさかのぼる。すでに書いたように、インド由来のダキニと日本の霊的動物である狐が融合することでお狐さんが生まれたとされるが、それがなぜ、京都の稲荷山から発生したのか?

稲荷山は紀元前から聖地として知られていた可能性があるようだが、歴史的に判明している起源としては、まずはじめに、渡来系民族である秦氏一族の墓であった。秦氏がどのような人々であったかはここでは触れないが、彼らが当時、つまり飛鳥時代において、先駆的な役割を果たしてきた人々であった。その墓が稲荷山であり、当然そこには数多くの遺体がおそらく土葬という形で埋められてきたのだが、そこに尸林の神様であるダキニが入り込んできたのはただの偶然ではない。

まわりくどい表現をやめれば、つまり、何者かが埋められた遺骨(髑髏)を収集するために、稲荷山に侵入した。それがなぜ秦氏の遺骨だったかは不明だが、いずれにしても秦氏は当時第一級の権力者であり知識人の集団であったわけであり、その霊的パワーを狙ったことは確かである。遺骨(髑髏)にも階級があるのである。

稲荷山には塚と呼ばれる巨岩が乱立しているが、これは墓石であるかもしれない。塚には○○大明神などという名前が刻み込まれているが、これはある種の戒名である。その名付け親はあるいは髑髏を狙った侵入者であったも思われる。 遺骨を狙った宗教者の一番の目的は髑髏であるから、その他の遺骨は今も塚の下に眠っている可能性がある。もしそうであるなら、稲荷山は巨大な墓地ということになる。

(髑髏崇拝、遺骨崇拝というとどうしても猟奇的なイメージが付きまとうが、仏教世界ではさして不思議なことではない。その起源は仏舎利にある。仏舎利とはお釈迦様、つまりブッダの遺骨を指し、実際に、ブッダの死後、二百年後にこの遺骨を細かく砕き、8万以上の寺へと配布したことからその伝統は始まったが、仏舎利を所有していることは仏教寺院としての誇りであり、負のイメージはほぼ払拭されている。ただし、ブッダ自身は、自分の思想が正しく理解されなかったこと自体は不本意だったかもしれない)


稲荷山にダキニを信奉する宗教者がやってきたとすれば、それは日本密教の開祖、空海(あるいは最澄。ただしお稲荷さんは空海系である)以後ということになるから平安時代である。もしかすると、それ以前にこれと酷似した宗教を旨にする者が稲荷山に侵入した可能性もあるが、いずれにしても、ここから日本における尸林の宗教は始まった。時代的には混沌とした中世日本のはじまりである。その序章を飾ったのがインドの秘境からやってきた悪霊ダキニであったことは非常に象徴的だ。日本の宗教はこのあたりから日本独自の道をひた走る。

ダキニはその後、この世の現世利益を叶えてくれる秘密の本尊として、あやしげな宗教者のみならず、数々の権力者たちから秘密裏に崇拝され信仰されてきた。ダキニ信仰は広範囲に広がり、とくに関東地方を中心に、性魔術として知られる真言立川流なる異端宗教が生まれたとされるが、ダキニの歴史はつねに社会の裏側で推移していったため、インドにおけるダキニ崇拝と同じく、真実は歴史の闇の中に隠されている。

最後に、日本とインドの直接的な関係について書いておきたい。これは以前からさまざまな局面で想像していたことだが、ダキニ崇拝にしろ、あるいはその他の、中世になって突如として日本を席巻していった魔術的な文化に、インド人が直接関与していたようなことはなかったか、ということである。

魔術的な文化とひとくちに言っても、それは非常に広範囲なものである。とくに魔術的な部分としては、平安時代から興隆した修験道と陰陽道、それから当然、密教文化がその中心になる。彼らが行ったさまざまな奇跡的な魔術について、それを直接指導したようなインド人魔術師が相当数いたのではないか、という仮説である。

日本とインドは、その中間の中国を通して類似する文化を共有してきたとされているが、実際、それでは説明のつかないような不思議な符号のようなものが数多く散見できるように思っている。これを書き出すときりがないが、たとえばの話が尸林である。

すでに説明しているので繰り返さないが、そこで行われた髑髏崇拝、白骨観、真言立川流にある性魔術など、インドとの強い関連を指し示す魔術文化が、日本には数多く存在していた、と個人的には考える。そしてたとえば、そこにインド人がいたとすれば、それはいったい誰だったのか、ということに思いをめぐらせると、ある一つの集団が浮かび上がる。

これもすでに書いたが、古代においてはカーパリカ派(頭蓋骨を首に下げているものの意)の名前で知られ、現在はナート派、あるいはさらに個性的な(人食い)アゴーリとして知られるインドの黒魔術師たちである。彼らは一般的にはサドゥと呼ばれる出家者の一派であるが、そんな彼らがダキニを携え、ヒマラヤを超え、大陸を横断して、さらに海を渡って日本に直接やってきた可能性があったのではないか。

プロの旅行者である彼らサドゥが日本にやってくるのはさして難しい話ではないが、残念ながら証拠がない。ちなみに下の写真が人食いアゴーリである。写真には見えないが、腹に人骨を隠し持っている。もちろん自分で食べた遺体の人骨である。

(アゴーリの写真はサドゥ写真集「サドゥ 小さなシヴァたち」にも3点登場します)






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