田園風景を走るバスの車窓におびただしい巡礼の姿を見た。彼らが目指すのは、平原の彼方に見える円錐型の小さな山である。山の名前をシヴァギリという。標高は約二百メートル、山頂には、タミル地方の少年神ムルガンをまつる寺院があり、南インド有数の聖地として人々の信仰を集めている。
シヴァギリの背後には、標高二千メートル級の山々が連なる山岳地帯が迫っている。そこには今なお多くの山岳先住民族が昔ながらの生活を続けており、平地民にとってははるかなる異郷である。
山の南側には賑やかなバザールが形成されている。町の名前はパラニ。ムルガン信仰の本拠地として知られている。小さな町だが、ムルガン信仰の門前町として多くの宿泊施設や土産物屋が軒を連ね、1日中巡礼が行き交う賑やかな町だ。パラニでは、タミル歴ターイ月の満月の日を中心とした三日間、大規模な祭が行われる。ターイプーサム(ターイ月の満月の意味)と呼ばれるこの祭の期間中、タミル地方はもとより、南インド全土から数十万人の巡礼が訪れるという。小さな町は巡礼たちでごった返す。
巡礼の多くは、重要なお願い事を秘めてこの聖地にやってくる。彼らは長くて数ヶ月前から禁欲生活に入り、そのあいだ、肉食、酒、煙草を止める。そしてタイプーサムが近づくと、遠い村から何日もかけて裸足で聖地をめざす。
巡礼たちの姿はさまざまである。ミルクや油が入った壷がくくりつけられている、カヴァディーと呼ばれる天秤棒を担ぐ人々が多い。苦行者の姿も多い。口や舌に鉄の棒を突き刺す者、また、体中に何十本もの釘をさし、ムルガンにちなんで孔雀に模した飾り物を身につける者など、奇妙な風習がこの祭の見物でもある。祭の興奮でトランス状態に入る人も多いが、道行く人々は気にする風もない。すべてを神に投げ出すトランスという行為は南インド中で最も模範的な宗教行為のひとつとされる。
巡礼たちは聖なる山シヴァギリに参拝する前に、山のまわりを時計回りに一周する。彼らは手を叩いて神々の賛歌を歌い、子供のように飛び跳ねながらその喜びを表現する。その表情には嘘がない。誰もがムルガンを称え、参拝できる幸せに浸っていた。僕はこの祭で多くの巡礼にレンズを向けたが、ほとんど断られることはなかった。そればかりか、カメラを構える私に向かって多くの巡礼が手をあわせた。人々の瞳はまるで少年のように輝いている。これだけの信仰心が今も生き残っている場所を僕は他に知らない。
ところで、ムルガンの起源はどこにあるのだろう。純粋無垢な少年として描かれるムルガンは、つねに乗り物として孔雀を伴っている。インドでは、孔雀は聖なる鳥として大切にされる。ムルガンに限らず、インドの神様の絵にはしばしば孔雀やその羽が描かれる。また、タミル地方の寺
院を守護するゴプラム(塔門)の華やかな装飾もまた、孔雀の羽を模したかのような印象をうける。インドの聖なる鳥といえば、ビシュヌ神の乗り物であるガルーダを思い起こすが、これは、大地の力を代表する蛇を征服するものの象徴である。ムルガンに従う孔雀もそうした意味があるのだろうか。ただし、さまざまな化身を吸収しながら二千年ほど前に成立したビシュヌ信仰と比較すれば、ムルガン信仰の起源は謎であり、よく分らないだけに、はるかに古い可能性もある。
現在、ヒンドゥー教の世界では、ムルガンはシヴァ神の息子とされている。軍神カールティッケヤと同一視され、ゾウ頭の神ガネーシャの弟とされる。
神話では、ムルガンが兄ガネーシャの悪知恵に騙され、怒って家出する話が伝えられている。… 当時、聖人アガスティヤの命令で、二つの山を天秤棒(信者が好んで携えるカヴァディーの由来はここにあるとされる)にぶら下げ運んでいたイドゥンバンが、パラニの地で休息したことから事件は起こる。時を同じくしてパラニにやってきた家出少年ムルガンは、天秤棒にくくりつけられた二つの山の大きなほうで昼寝をはじめた。これに怒ったのがイドゥンバンだ。が、相手が悪かった。シヴァの息子であり、軍神であるムルガンに勝てるわけもない。すぐに降参し、大きな山をムルガンに取られ、自身は小さいほうの山の守護神となることで許される。この山の名前をシャクティーギリと呼び、今もシヴァギリの南西にその姿がある。物語の最後は、自分の悪知恵を恥じた兄のガネーシャが、両親からもらった果物をムルガンに返すことで決着する。
ムルガンが住むシヴァギリのまわりを一周した巡礼たちは、いよいよ山頂へと向かう。そこに続くつづらに曲がりくねる急な坂道を、巡礼たちが確かな歩調で登っていく。ムルガンが住む山頂の寺院までは約二十分の道のりだ。頂上には黄金の屋根を持つ本堂が巡礼たちを待ちうける。残念ながら、山頂付近の撮影は禁止だった。今も神々が人々の心の中に生きるインドでは珍しいことではない。山頂は多くの信者たちでごったがえしていた。五体倒地をする人も多く、すごい熱気だ。人々はごく自然にトランス状態へと入り込んでいく。
パラニに横たわる聖なる山シヴァギリは太古の昔より崇拝された聖地に違いない。平原に突如姿をあらわしたピラミッド型の小山に、人々は神の存在を感じた。当時(それは五千年あるいは一万年も前のことだろうか)、パラニの辺りは人跡未踏の原野が果てしなくつづいていたはずである。シヴァギリの山頂では、ターイ月の満月の夜に人々が集まり、謎めいた原始祭祀に没頭した。それは多分、一種の成人儀礼のようなものではなかったかと想像できる。過激な苦行がそれを物語っているようである。そして、極度の心労と興奮がない交ぜになった視神経の彼方に見えたもの、…それがきらびやかな孔雀に乗った少年神ムルガンだったのではないだろうか。
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(追記)
タイプーサムの写真はこちらにも二枚あります。
(苦行する女性)
、(ムルガンに扮した少年)
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