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野獣の王シヴァと動物たちの不思議な関係

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以前、フォトエッセイ「インドの動物事情」で、インドと動物との不思議な関係を書いたことがある。それを簡単にまとめると、ひょっとすると、インドでは人間より動物の地位のほうが高いのではないか、ということだった。もちろん、これは誇張した言い方であるのは承知している。曲がりなりにもインドは大国であり、貧しいといっても核兵器さえ作る国である。インドだったら何でもあり、というわけではない。ただ、個別にヒンドゥー聖地を巡ってみると、あれっ、と思うような、つまり人間と動物との逆転現象が見られ、それが強く印象に残るのである。



人間と動物との不思議な関係は、具体的には「インド動物事情」に書いたが、では、それが一体どういう思想、いや思想と言うより神話によって生み出されたのか、ということに興味があった。でも、勉強嫌いの人間には、いちいち神話を読み進めるのは苦行である。だからこれから書くことは、インドを旅するなかでなんとなく感じたことをまとめたもので、適当に受け流してもらえればありがたい。

インド人と動物との関係は、ある種、非常に疎遠であるといってもいい。その典型は、インドに根強く残る菜食主義(関連記事「インドベジタリアンワールド」)である。つまり肉を食べない。食べるという行為はある種コミニケーションの一つとも考えられるので、それがないということは、やはり疎遠な関係と言えるのではないだろうか?

また、インドに動物愛護の精神があるといったところで、それは例えば先進諸国のように、人間がいちいち動物たちに気を配ることではなく、はっきりいってしまえば、ほとんどほったらかしに近い。町は動物たちであふれかえっている(chaichaiblog「インド牛」の写真を参照)。にもかかわらず、インド人と動物たちとはある意味、没干渉である。

疎遠なのは人間と動物との関係だけではない。人間と人間との関係についてもいえて、カーストがひどく違えば、やはりお互いあまり干渉もしない。冷淡といえば冷淡だが、へんに苛めようともしないので、なんとなく楽でもある。そのあたり、日本の村社会的親切とは正反対だ。

という訳で、いくらインド人が動物を大切にしているといっても、じっさいにはペットを飼っている人などにはあまりいないし、犬を連れて優雅に散歩、といった風景もまず見られない。

ただし、伝統的に動物と密接な関係をもち続ける人々もいる。例えば、ゾウ使い、蛇使い、猿回し、そして、今でもたまに見るのが(僕は一度しか見ていないが)熊使いだ。彼らはもちろん趣味としてやっているわけではない。そういった家系に生まれてきて、無意識にそうしているだけのことだ。

このなかで、ゾウ使いだけは寺に属する場合も多く、定住しているが、あとの人々は基本的に放浪の民だ。じっさい、どれくらい放浪しているのかは知らないが、だいたい祭りから祭りと渡り歩くのが常である。そんな彼らを、一般人は一体どう見ているのか?

ここからは適当な話になるが、僕はこれらの動物使いが、じつはシヴァ神直属の家来のような存在ではないかと思っている。彼らの出自は完全に怪しげだ。人里離れた森に分け入り、動物たちを捕まえ、意のままに操る。これらの行為は、ある意味、ヒンドゥーの教えに反するのではないだろうか?動物たちは人間の家来ではなく、むしろ神々に仕える聖なる存在であるはずだ。それは例えば、シヴァとその家族達の姿を想像してもらえれば理解してもらえると思う。

虎皮のふんどし、首にはコブラ、頭にもコブラ、そして従者の牛、そんなシヴァの息子はゾウ顔のガネーシャ、ガネーシャの乗り物はネズミ、そしてもう一人の息子ムルガンは、やはりきらびやかな孔雀を乗り物にしている。シヴァの奥さんパールヴァティーにしても、その意味は「山の娘」。その化身ドゥルガーの乗り物はライオンである。まさに動物だらけだ。

インド人が動物を大切にしながら、しかし一方では無関心を装うのも、結局、動物たちが神々の領域に属している、ある意味で危険な存在だと考えているからではないか?

しかし、である。では一体、どうして動物使いたちが平気で動物を操ることが出来るのか、といえば、答えは二つに絞られる。一つの理由は、神々を恐れていないから、そしてもう一つの理由は、神々から許可を得ている、そのどちらかだ。許可を得ている、というのはもちろん比喩だが、僕は後者の理由によるものだと思っている。

そう考えたのは、やはりシヴァ直属の部下のような存在であるサドゥーもまた、わりと好んで動物を連れているのを見かけるからだ。犬、猿、そして蛇。…あるサドゥーはすごかった。直系三十センチもあろうかという胴を持つ、長さ二メートル近い大蛇を首に巻いて旅をしていたのだ。

考えてみれば、サドゥーと動物使いはわりと同じような場所をうろうろしている。もっとも多く見かけるのが、シヴァ系の聖地だ。一つ代表的な場所をあげるとすると、ネパールのパシュパティナート。パシュパティナートのパシュパティは、ずばり「野生の王」を意味するシヴァの異名でもある。「野生の王」とは、またすごい名前だ。これを大胆に解釈すれば、あらゆる動物たちの生殺与奪の権利はすべてシヴァにある、というふうになってしまう。


(パシュパティナートのサドゥーたち)

ということは、反対にいえば、人間には動物を飼ったり食べたり、あるいはペットにする権利すらない、という解釈も可能だ。ただし、二つの例外がある(と考えてみた)。一つはまず、サドゥーと動物使いには、それらの権利は条件付で認められている。そしてもう一つ、これもまったくの想像だが、牛だけは、シヴァから人間へのプレゼントとして、農作業を手伝ったり、ミルクを飲むことに限定して、利用可能とする、とまあ、こんなふうな利用規定があるのではないか(ってすべて創作だが…)、と想像してみると、なんとなくインドのことが分かるような気がしてくる。

最後に犬のことを話さなければならないだろう。数ある動物のなかで、もっともインド人から嫌われ、軽蔑され、そしてあろうことか、時には棒で殴られたり蹴られたりする哀れな動物が(野良)犬である。あの豚でさえ、インド人から無視されているだけなのに、どうして犬だけは、といろいろ考えてみた。

まず一つ、その理由をあげれば、それはイスラム教の影響であろうか。イスラム世界では犬は悪魔だとして徹底的に蔑まれ、そして挙句は殺される運命にある。そんなイスラム教も、約千年前からインドに大量に流入し、現在は約10パーセント、じつに一億人以上ものイスラム教徒がインドには存在している。ヒンドゥーとイスラムはいろいろ問題はあるものの、長いあいだ、お互いに共存しあってきた事実を考えれば、ヒンドゥー教徒がイスラム教徒の影響をうけなかったとはいえないだろう。それで犬嫌いになった。これがまず、一つ目の理由だ。

そしてもう一つの理由、これはまたしても想像と独断に過ぎないが、もしかすると、あまりにも人間に寄生し、野生の魂を失ってしまった犬に対して、「野生の王」シヴァもあきれ返って見放した、とそんなことがあったのでは…。例えば、ゾウにしろ、蛇にしろ、そして猿や牛にいたっても、いくら人間に飼われようともどこかに野性的な凄みを失っていない。それに比べて犬のあの態度、誰に対しても尻尾を振りまくり、すぐ人の顔をぺろぺろ舐める。シヴァのしもべ、野生の動物にはあるまじき行為だ。「あいつは誰々の犬だ」という言葉どおりなのだ。

ま、本当の理由はまだ分からない。今後、何か分かったら、是非また書きたいが、勉強嫌いな人間なので、いつのことになるやら…。それより、今後は蛇使いとかとも交流しようかな。でも、怒らせたら怖そうだ。なんといっても「野生の王パシュパティ」の直属の部下だからな…。






サドゥ 小さなシヴァたち

インドの放浪修行者
サドゥの本へのリンクです。
ご覧ください。






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