インドの放浪修行者集団であるサドゥーにもナガ(ナガス)を名乗る人々がいる(上の写真)。彼らはヨーガに習熟し、シヴァを熱烈に信仰していることで知られている。ナガサドゥーに蛇との関連を直接尋ねたことはないが、彼らが行うヨーガの基本的なエネルギーであるクンダリニーには、とぐろを巻く蛇がイメージされている。そのエネルギーはヨーガを通じて、体中に張り巡らされた気道をつたって天界へと上っていくのだが、それは絡み合う二匹の蛇をイメージしたものであるともいえるだろう。
イメージというのはヒンドゥー教の世界ではまさしく具現したことに他ならないから、彼らナガサドゥーの奇妙な修行はまさしく内なる蛇をよみがえらせようとする試みだといえるかもしれない。また、クンダリニーがつたう気道はナーディーと呼ばれるが、これはナーギィが訛ったものであり、まさしく蛇を意味している。
ナガサドゥーは、そのしなやかな体つきから怪しげな目つきまでがまるで蛇のような生命力を帯び、やがて、さらに高次の次元であるシヴァとの一体化をめざしてどこまでも昇華していくかのようだ。
メスの蛇を意味するナーギィとはインドでは川を意味している。まるで蛇のように蛇行しながら大地を下る様子からこの名が与えられたのは想像に難くない。ナーガでなくナーギィであるのは、大地はもともと女性だとするインド古来の伝統からきているのかもしれない。人の体をクンダリニーが走っていくように、大地には女神ナーギィが走っていく。なかにはサラスヴァティーのように、地中奥深くを走る川もあり、これらすべてにナーギィの名が与えられているのは見過ごすことが出来ない。それは他方、クリシュナやインドラが退治した蛇の怪物もまた、本来はこうした女神であったかもしれない、ということを意味するのではないだろうか。
この仮説の上にたってみれば、先に書いたカーリヤやヴリトラに与えられた暴君的なイメージもまた、蛇を忌み嫌う当時の征服者によって押し付けられたものであった可能性が強い。実際、ヒンドゥー(バラモン)教の黎明期における支配者のほとんどが、もし定説のように中央アジアからやってきたアーリア系だったとするなら、それまでインドの大地を潤してきた女神を敵視するのもまた不思議ではない。その象徴として蛇神が蔑まれ虐げられてきた時代がインドにもあった。それはまた、蛇の家系に連なるインド先住民にとっても受難の歴史であった。
インドにおける蛇の重要性は、おそらく太古の昔から続くものであったと思われるが、それを知るには、仏教やジャイナ教、そして、これらの新宗教の影響を受けて再びよみがえったヒンドゥー教を検討する必要がある。
ブッダがナーガの血を引くものであった可能性についてはすでに書いたが、さらに、修行中のブッダを、蛇王ムチャリンダが盾の役割を果たして雨や風から守ったことがよく知られている。
似たような話はジャイナ教にも見られ、ジャイナ寺院の一部にも蛇の姿を見ることが出来る。仏教やジャイナ教は、それまでバラモン中心であった宗教的支配にたいする精神的革命としておもにバラモン以外の階級層から支持されてきた側面が強かった。そこには当然、インド土着の文化の復興が見られたが、その一つの象徴が蛇であったと考えられる。
しかし、蛇が精神的動物として完全な復活を遂げるためには、さらに新たな神の存在が不可欠だった。その役割を果たしたものこそがシヴァであったと考えられる。
シヴァと蛇との関係を整理する前に、先に書いた、クリシュナとインドラの、蛇の怪物にたいする温度差について書き記しておく必要がある。時代的にはインドラがバラモン全盛時代で、クリシュナが、その後の時代だと考えるのが妥当だろう。
大地の女神でもある蛇に対して、卑怯なまでのやり方で殲滅してしまおうとするインドラには、当時のバラモン階層の驕りが見え隠れしている。たいするクリシュナは蛇王に対して非常に同情的ですらある。というのも、蛇王カーリヤが海に逃れるのであれば、蛇の天敵である鳥の神様ガルーダから永遠に守ってやる、という約束まで交わして放免している。この伝説には、すでにインドラ時代とはまったく異なる価値観が描かれている。
一説によると、クリシュナはアーリアと先住民のハーフだったとされている。その肌の色が黒く、あるいは青く描かれるのもその為だと考えられているが、そうであるなら、蛇王に対する同情も当然のものだといえるだろう。
ビシュヌと、その化身であるクリシュナやブッダが、それでもまだ、蛇に対して距離感があるのに対し、シヴァは極端なまでに密接な関係を持っている。
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