前回の「インド先住民の民 その一」ではおもに砂漠の民について書いた。でも、インドの先住民といえば、その主役はやはりデカン高原に住む人々である。彼らこそ、じつはインド全体の文化に大きな影響を残し、さらに現在インド人の祖形ともいうべき人たちだと考えている。
とはいえ、ことはそんなに単純ではない。何しろデカン高原はとてつもなく広い。極端にいえば、インドの約半分はデカン高原である。その面積は日本が三つ四つ簡単に入ってしまうほどだ。住んでいる先住民の種類も多岐にわたる。しかし僕がじっさいに見たのはその数十分の一、いや数百分の一に過ぎない。という訳で、デカン高原の解説などといった大それたことは出来るはずもない。その意味ではあまり期待しないで読んでもらえれば、と思っている。
デカン高原西部に居住するビル族。
この男はシャーマンである。
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デカン高原に住む民族は一般的にオーストラロイドであるといわれる。オーストラロイドとは、例えばオーストラリアのアボリジニやパプアニューギニアの人々(異説あり)などを指すようだがはっきりしたことはやはり分からない。意味は「南の人」というぐらいのもので、その出身も不明である。だから、インド先住民がオーストラロイドであるという確証があるわけではなく、他に適当なものがないから、という消極的理由によるものだと思う。
それに、すでに書いたように、デカン高原と一口にいってもそれはとても広い地域を指し、僕はその東西南北でちょこちょこ先住民を見る機会があったが、やはり顔も文化もそれぞれ違う。同じデカン高原といっても西に行けば行くほど、(いわゆる)アーリア系の血が混じっているような顔つきになるはもは高く手足は長いのだ。反対に、東のほうでは、例えば鼻なんかも低いかあるいはずんぐりしている。もしかするとオーストラロイド系の特徴もあるのでは…?
それにしても、デカン先住民の話は最初から暗礁に乗り上げてしまった。まずオーストラロイドという言葉がでた途端、では一体、オーストラロイドとは何だろう、という疑問がこみ上げてきた。彼らは褐色の肌を持つが、黒人種とははっきりと異なる存在であるようだ。また、アボリジニには相当数の金髪がいるらしく、一説には旧白人種との見方もあるような謎めいた存在なのである。
また、オーストラロイドとの関連でいえば、ドラヴィダ族を無視するわけにもいかない。金髪は見受けられないが、彼らもまったく謎の民族だ。地中海出身だとする説もあるが、よく分かっていない。インダス文明の担い手であったのは間違いないらしいが、その神話によると、彼らは失われた大陸からやってきたといわれている。失われた大陸とは一体どこなのか…?
そう、インド先住民について話そうとすると、ではドラヴィダとの線引きはどこでするのか、という問題もでてくる。もちろん、現在おかれている社会的立場も違うし、その典型的な顔を見れば、先住民とドラヴィダの差は歴然としている。でも一方では、あまり先住民と変わらないドラヴィダ族もいるのだ。
本文の最初のほうで、デカン高原はインドの半分を占めるほど広いと書いた。これが今回の主題になりそうだ。結論からいえば、思うに、インド人はその大半が先住民の血を引き継いだ人々ではないか、ということになる。これは暴論というほどではなく、一般的にも言われていることだと思う。それを証明するものはないが、インドの神様には先住民の影響が非常に濃厚だ。
例えばシヴァ。これはあちこちで書いたことだが、繰り返してみる。その姿は完全に先住民の文化に一致している。虎のふんどし、コブラ、ほら貝、三叉戟(狩猟用?)、シヴァの持ち物というのはことごとく先住(狩猟)民族世界に重なりあう。また、腰には紐を何本もねじり合わせたものを、さらにぐるぐる巻いているが、これはインドヒマラヤのとある先住民の衣装とやはり一致している。
シヴァだけではない。その奥さんのパールヴァティーはともかく(これも怪しいが)、その化身であるドゥルガー、さらにカーリーなどは完全にそっち系である。ドゥルガーの出身はデカン高原内、ヴィンディヤ山脈であるとされるが、ここは今も先住民の人口が非常に多いところでもある。カーリーについては「殺戮の女神カーリー」に詳しく書いたが、もはや疑いようもない。カーリーとは黒を意味するが、それは褐色の肌を持つ先住民を示唆している。
日本にもやってきた「ダキーニー(荼吉尼天)」(こちらを参照)もデカン出身である。ダキーニーはカーリーの侍女とされる悪鬼である。ジャッカルの精がその起源であり、好んで死肉を食べるという。そういえば、H.P.ブラヴァツキーという人が書いた「インド幻想紀行」には、ダキニ族が登場するくだりがある。インド先住民にダキニ族がいるとは初耳である。英国統治時代の話でちょっと眉唾ものだが、とてもおもしろい。本当にいるなら、是非会いたい。
デカン高原東部は不明だが、中央部から西部にかけての先住民の多くが春に大きな祭りを行う。ちょうどシヴァ祭(シヴァラットリ)やホーリー祭に重なる時期であり、先住民もこれらの祭りを盛大に行うのである。
一般的に、これは先住民が一般ヒンドゥー文化を真似たものとされるが、じっさいには反対なのだと思う。むしろ、一般インド人が先住民の神様を横取りしたかのような印象すらあるが、もっとうがった見方をすれば、時代とともに多くの先住民がシヴァとともに山を下り、そしていつのまにか、一般インド人としてヒンドゥー社会を築きあげたのだといえるだろう。アーリア云々というのを決して否定しないが、結局彼らが連れてきた神々はほとんど凋落してしまっている。それがすべてだ。
そういう観点でみるなら、現在先住民として存在する人々はその時流にのれず、今も山のなかに取り残された存在である、と言えるのではないだろうか?前回に紹介したことだが、インドでは先住民のことを「アーディヴァーシー」と呼ぶ。はじめの人、の意味を持つが、それは意訳すれば、「インドの始まりを担った人々」とも受け取れる。インド先住民とは、たんなる少数民族ではない、ということをとくに確認しておきたい。
さて、今回は具体的な話はほとんどしなかった。じつは具体的な材料はすでにあるのだが、それが少し特殊な世界であり、また、そこから推理する話があまりに唐突なので、まずはそのイントロという意味で「先住民の世界」を書いている。ただ、大国インドでは、このイントロを書くだけでも骨が折れる。まだまだ不十分であり、序の口に過ぎない。次回からは、一般ヒンドゥー世界に残る先住民の文化を取り上げてみたい。
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