インド先住民の世界については、chaichaiのなかで何度も触れてきたし、また今後もそうなりそうな気がするだけに、一度、基本的なことだけでも書いておく必要があるのでは、と常々考えていた。ただ、この「基本的なこと」というのがすでにインドでは大変な話であり、まるで錯綜する糸を解きほぐすような努力を要する。ま、とりあえず解説してみよう。
典型的なシーク教の顔
|
その前に、インド人と言われて皆さんはどんな顔を思い浮かべることだろう。よくあるのが、あのターバンをかぶった男の顔だ。そのモデルとなっているのはおそらくシク教徒である。彼らはビジネスに長けているので外国で活躍する機会も多い。そのため、インド人というとシク教徒を思い浮かべる人が多いが、じつは彼らはインドでは少数派である。しかもその主要な居住区はインドの西の端であり、これをインドの代表的な顔を言うには少し無理があるかもしれない。
また、ターバンといえばシク教徒というのもまた、ただの思い込みに過ぎない。インドの砂漠地帯では今もターバンは普通にかぶられているし、僕の知るかぎり、その分布はデカン高原の南端にあたるカルナータカ州の北部にまで及んでいる。これらのターバン文化にはさまざまな形があるが、かぶり方で言えば、シーク教徒がやや変則的であり、そういった意味でも、彼らがインドを代表する民族とはやはりいいがたい。
しかし、だからといってどれが典型的なインド顔かと街中で探してみたところで、おそらく見れば見るほどいろいろな顔があることにあらためて驚くことだろう。僕はインドに10年以上通っているが、じつはインドの代表的な顔というのがいまだに思い浮かばない。
はっきりいってインドは完全な雑種民族である。しかも、広い大陸で混じりあう度合いがさまざまに違っていくので、ますますその識別は困難になる。例えば北インドは古代アーリア族やその後のイスラム系民族の流入もあり、鼻筋のとおった彫りの深い顔が多く見受けられるが、南はドラヴィダと呼ばれる民族が主流であり、アーリア族とは逆に鼻は低く、顔も丸い。しかし、インドならどこにでもいる顔というのもある。それも一様ではないが、痩せていて、手足がひょろ長く、頭がやや小さいように見受けられるが、これは一般的に下層階級に多いタイプだ。
とりあえず、特徴的なインド人のタイプを三種類に無理やり分けてみたが、じっさいには一人の人間の中にもさまざまなの特徴が微妙にまじりあっていて、この人はこのグループ、というようには上手く当てはまらない。例えば、それが兄弟であっても、お兄さんはこっち系だが弟はあっち系かな、となることもしばしばである。じっさいインド人もそんなことを考えているのか、ある日、博物館で変な光景を目撃した。
そこはデリー国立博物館のとある一角、インド人がわいわい騒いでいるのでのぞいてみると、そこには、いわゆる猿から類人猿、そして北京原人か何かから現在のホモサピエンスまでの、よくある人類進化に関する絵があった。
インド人グループがそれを見て何をしていたかというと、何と友達同士で、「お前はまだ類人猿だな」とか、「俺はもうネアンデルタール人まできている」とか、お互いに評価しあっているのである。僕はいちいちそれを聞いては絵と見比べていたが、そのうちそれらの話が冗談には聞こえないように思えて不思議な気がした。
もしかすると、は思ったのは、インドのカースト制というのは、たんなる人種差別というより、もっと壮大な差別化を意識して行われたことではないのか、ということだった。そういえば最近、現人類はネアンデルタール人との混血である、という説があるらしいが、もしそうであるとすれば、例えば、よりネアンデルタール人の血が濃い、という人々も当然存在しているのでは、と想像してみた。
さて、この章の冒頭で、インド先住民のことについて「ごく基本的なことを」と書いたが、すでに完全に脱線してしまった。とりあえず話しを先住民に戻そう。大国インドでは、先住民についての考察もまた、さまざまな要素を考慮して考えなければならない。ただその前に、大前提として、インド先住民についての基本的なことをまず、少し書いておこう。インドでは、彼ら先住民のことをアーディヴァーシー(アディヴァシ)と呼ぶ。その意味は「はじめの人」といったニュアンスである。人口は約五千万人ともいわれる。全インド人の二十人に一人が先住民だという計算になる。
さて、では一体どのような人々が先住民として存在しているのか。まず第一に、デカン高原中央部から北東部にかけて分布する幾多のグループをあげることが出来る。彼らは、民族学的な区分けでいえば、おそらくオーストラロイドであろうとされるが、もしかすると微妙に違うかもしれない。東部に行くほど鼻は低くなる(小さいわけではない)傾向があり、逆にデカン高原西部ではいわゆる鷲っ鼻の人も多く見られる。しかし、デカン高原の西、タール砂漠に足を踏み入れると、さらに鼻が高くなる。ここにも多くの先住民が混在している。
デカン高原の先住民に触れる前に、まず砂漠の先住民について話したい。これら砂漠の先住民の起源は謎めいている。彼らは見てのとおり、いわゆるアーリア族の特徴を色濃く伝えている。また、言語学的にもやはりアーリア族といって差し支えないだろう。しかし、にもかかわらず、なんとなく納得できない部分があるのだ。例えばあの鷲っ鼻にしても、正直言って高すぎる。まるで魔女のようである。それに一部の人々の、あの手足の長さもちょっと異様だ。失礼を承知で言えば、まるで蜘蛛を思わせる。蜘蛛といえば、日本にも土蜘蛛と呼ばれる民族がいた。古事記に出てくる長脛彦(ながすねひこ)も、その一人かもしれない。文字通り、異様に手足が長いのだ。
砂漠の民のなかには、自分はそのつもりはないのにほかの人からは先住民としての扱いを受けている人々がいる。例えば、一部のラジプートがそうだ。ラジプートというのは、多くのマハラジャを生んだ由緒正しいクシャトリア階級で、日本で言えば「さむらい」である。とはいえ、一部のラジプートたちの生活様式は非常に古く、ときに原始的でさえある。女性たちはまるで孔雀を思わせるような派手な衣装を身につけ、男たちはい今もラクダを引き連れて砂漠を放浪するのだ。
そういえば、映画「ラストサムライ」でも日本の「さむらい」がまるで部族民(例えばアメリカインディアン)のように描かれていたが、ラジプートもある意味、そうした謎めいた存在として街の人々から恐れられ、不思議がられているのかもしれない。まあラジプートが部族民というのは少し言いすぎにしても、村のラジプートとあまり変わらない文化を持ついくつかの砂漠の民が、やはり先住民として認定されているのは間違いがない。彼らとラジプートの差は微々たるものに違いないし、その出身もほとんど変わらないかもしれないのだ。
先住民であるかないかの問題はさておき、砂漠系民族の最大の特徴はともかく放浪好きなことである。南インドにはヒンドゥーの重要な聖地がいくつもあるが、そこでよく見かけるのがターバンをかぶった砂漠の民であった。はるばる遠い彼方から南インドまでやってきて、一人でふらふらと放浪しているおじいさんなんかも珍しくない。その身なりを見れば、彼らがあまり裕福でないことは容易に想像できるが、一体どんな風に旅をしているのか?
そういえば、ジプシーはインド出身とする説が強いが、もしそうなら、やはり砂漠系先住民にそのルーツがあるのではないかと思う。ジプシーの影響をうけて成立したフラメンコなどを見ても、なんとなく共通点が感じられる。
そんな砂漠系先住民のテリトリーはじつに広範囲である。ゴアのビーチでよく見かけるバンジャーラ族とかいう派手な衣装の女性たちもまた、同じ系列の先住民と見られるが、彼らの出身地はゴアのさらに南東部、カルナータカからアンドラプラデーシュである。すでに完全に南インドの領域である。
これら砂漠の民の出自は今のところよく分かっていないようである。教科書的にいえば、およそ三千五百年前に中央アジアからやってきたという、いわゆるアーリア族にあたるのかもしれないが、本当はアーリア民族大移動なんて歴史はなかったのではないか、といった、従来の常識を覆す異論も最近は聞かれるようになった。それに同じような文化風習を持つ砂漠の民が、一方はクシャトリア(武士階級)としての扱いを受け、他方は先住民、またときに不可触民のような扱いさえ受ける(「写真で見るインド」で紹介した「カッチ原色の村」のメグワル族がまさにそういう立場に置かれている)のも不可解である。
砂漠系民族のことはとりあえずこれぐらいにしておこう。結局分からないことだらけなのだ。彼らのことがもっと知りたければ、また砂漠に行かなくてはならないだろう。はたしてそんな余裕があればいいのだが…。
さて、そろそろ本題に入ろうと思ったが、砂漠系民族についての話がずいぶん長くなってしまった。とりあえず一区切りつけて、デカン高原に住む先住民については「インド先住民の世界 その二(デカン高原の民)」で書く。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
(参考)
砂漠の民についての写真は、フォトギャラリー「砂漠の村」、写真で見るインド「ラジャスターン砂漠の祭典」および「カッチ原色の村」に多数あります。
|