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奪衣婆サドゥ

旅行記「サドゥを探しに」
第三章 ケダルナート編の第一話




シヴァの聖地ケダルナートにやってきた。ヒマラヤ高峰に囲まれた小さな谷間に古い石造りの寺院が建っている。標高は約3500メートル。バスの終点から16キロの道のりを約6時間かけて登らなければならない。不便な場所にあるが、その分だけ静かで街も小さい。第一章の舞台であるバドリナートと比べれば十分の一程度の規模である。街というより素朴な山村を思わせる。周囲に広がる草原も美しい。そしてお目当てのサドゥもたくさんいる。僕はすぐにこの場所が好きになった。

簡素だがだだっ広い部屋を確保してすぐにサドゥを探しに街に出る。到着したときに「こんにちは〜」と日本語で挨拶してきたあやしげなサドゥーも面白そうだがさてどうしよう。上半身裸で体中に灰を塗りつけた姿は被写体としては魅力的だが、たぶん曲者だろう。付き合うのは大変かもしれない。それに歩き詰めで少し疲れた。…しかし待てよ、と僕はチャイを飲みながら考える。その場所がもっとも新鮮に見えるのは最初の数日である。やはり休んではいられない。


表通りまで出掛けて先ほどのサドゥーを探しているうち一人のあるサドゥと目があった。体と顔に真っ白な灰を塗りつけているのはあの怪しげなサドゥと同じだが、どうやら別人のようである。挨拶すると意外にさわやかな笑顔が返ってきた。僕はすぐに彼のとなりに座り込んでタバコを差し出しながらさらに畳み込む。

「日本人のカメラマンです。今日到着しました。いいところですね〜」

「そうだな」

「今日は天気もいいし散歩に行きたい気分ですね」

「そうか。では案内してやろう」

やはり暇なのだ。とにかく幸先のよいスタートが切れた。

立ち上がったサドゥーの奇妙ないでたちをあらためて眺めた。白い灰を塗りつけた四角い顔と派手な飾りがついた冠帽子、右肩をのぞいて全身に巻きつけた赤い布、そして厚底の木製のサンダル。意外なほど柔和な表情とユーモラスな雰囲気は日本昔話に例えるとまるで天狗様のようである。


彼の名はナガババ・ゴービンダギリ。ナガババというのはサドゥの一宗派の名称で、ギリはナガババを構成する六つほどあるさらに小さなグループを示す名称の一つだ。だからファーストネームはゴービンダである。ただし、呼びかけるときは「ババジ」で十分だ。「ババ」は広くサドゥを意味しており、「ジ」は尊称である。「ババジ」という奇妙な呼びかけがサドゥにはよく似合う。

ナガババ(ナガサドゥ)についても説明しておきたい。ナガババはサドゥのなかでももっとも個性の強いタイプとして知られる。また非常に古い歴史を持つグループである。その起源は誰も知らないが、それをいいことに勝手に推測すれば、五千年かあるいはそれ以上の歴史を持っている。そのためプライドが高く威厳に満ち溢れている。ヨーガの達人というのはたいていナガババである。黒魔術の使い手もたくさんいることだろう。

ナガババを象徴するのが彼らの奇妙な格好である。ヒマラヤ高地ではさすがに難しいが、ナガババは本来、衣服というものを着用しない。素っ裸になって、全身に白い灰を塗りつけた格好こそが彼らのフォーマルな姿である。日常生活において素っ裸を通すナガババはさすがに少ないが、祭りの場ではバシッと服を脱ぎ捨て、そのまま何日も全裸でいるのが理想とされる。
まさに人間国宝のように貴重な存在だが、残念ながら希少価値があるほどナガババの世界は衰えていないし、しかも奇人変人の類が大変多い。ナガババを非常に崇拝する信者がいる一方で当然軽蔑するインド人もまた多いのである。ただし人からの軽蔑というのはナガババにとっては飯の種のようなものだから、軽蔑すればするほど逆にパワーアップしてしまう。その一人である天狗様のようなナガババ・ゴービンダギリも格好だけ見ればどう見ても変人である。

僕たち二人は寺院の左手を通って裏の草原に向かって歩き出した。寺院から少し先の左手にもテント状のクティアがあり、その前にも一人のナガババが座り込んでいる。にやけた表情に虎の皮を模した腰巻、かたわらには鉾先が三つに分かれた三叉戟が地面に突き刺さっている。そして目の前を巡礼が通るたびに手に持つ大きな払子で頭をたたいて祝福し、金を要求する。まるで関所の番人だ。第一章バドリナート編の第五話にも書いた話だが、これはやはり「奪衣婆(だつえば)」であろう。

あの世とこの世を隔てる三途の川の番人。死人たちから衣服をはぎとり地獄への引導を渡すおそろしい鬼女だが、ケダルナートにおいてはもはや昔の話。にやけた顔つきのサドゥがぬっと差し出す手から巡礼たちは笑い転げながら体をくねらせ逃れようとする。

彼が巡礼に金を要求するのはやはり通行料だ。巡礼たちは寺院に参って身を清めたあと、寺院の裏手の山々を歩いて小一時間ばかりの異界巡りの旅に出る。寺をとりまく自然というのは基本的にはすべて異界、つまりあの世である。本来は軽々しく足を踏み入れる場所ではない。そこで、「事情に詳しい俺たちがその許可を与えよう」というのがにやけたサドゥの主張であると想像できる。




「奪衣婆」サドゥは次にやってきた僕の顔を見て再びにた〜と笑いかけてくる。しかしこちらにも連れがある。奇妙な姿では負けていない。というよりゴービンダギリもまた「奪衣婆」なのだ。二人のサドゥは互いに黙殺しあっている。これはよくあることで気にするようなことではない。縄張りをめぐって二人のサドゥが牽制しあっているのである。

二人はある意味よく似ている。派手な格好をすることで巡礼の気を引き、金儲けできたらいいな〜と企んでいるのだ。僕はさしずめ彼らのカモである。カモをはさんで二人の「奪衣婆」が睨みあう。僕は二人の変人を交互に見比べ笑いをかみ殺す。インドでしか見られないような奇妙な光景である。

二人のサドゥは特別ワルだというわけではない。ここに来るまでの10分ほどの道を歩くだけでも、すでに何人ものサドゥから小銭を要求されてきた。サドゥというのは一種の乞食、物乞いである。二人のサドゥも乞食稼業の一環として、派手な衣装を身につけ自己宣伝に努めているにすぎない。乞食稼業に決して手を出さないサドゥもいるが、生産的活動をすることなく生きていけるのは、彼らが物乞いの一種である証明である。たとえばバドリナートの洞窟仙人のようにクティアを営み、そこに巡礼たちが迷い込むのをまるでアリ地獄のように待っているのも、やっていること自体はたいした変わらない。むしろ閉ざされた空間である分だけ僕らにはおそろしい。





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