chaichai > サドゥを探しにOm Namah Shivaya>サドゥの珍芸

ホーム

フォトギャラリー

写真で見るインド

インド旅の雑学

フォトエッセイ

ブログ

プロフィール

 


サドゥの珍芸

旅行記「サドゥを探しに」
第二章 ガンガー源流編の第十話




次の日、四人で向かったのはガンゴートリーからバスで四時間下った場所にあるガンガナーニ、バス道路から少し登ったところに温泉がある小さな村である。村の奥に小さな寺があり、その手前に男女に別れた共用の露天風呂がある。昼間は観光客で賑わうが、朝夕は人も少なく静かな場所である。シーズンオフの秋などに訪れれば、まさに秘湯の雰囲気が味わえることだろう。放浪中のサドゥが立ち寄ることも多く、まさに「ヒマラヤ仙人の湯」といった風情である。

ガンガナーニではひたすらのんびり暮らす予定であったがじつはそうもいかなかった。原因はもちろんサントスナートババである。アマルナートババとも離れてすっかりリラックスしているのはいいのだが、どうやら自分がサドゥであることすら忘れてしまうようなはしゃぎぶりである。同じゲストハウス内に泊まっているイスラエル人のグループが音楽をかけて踊っているのを見てすっかり興奮してしまった。

「お〜い、こっちに来て踊れ!」をわめきたてる。片足のサドゥからわんわん言われてさすがのイスラエル人も苦笑いをするばかりだ。イスラエル人が思いどうりにならないと悟ったサントスナートババは今度を僕たちに向かって、「そうだ神々の話をしよう」と迫ってくる。

部屋に三人を集め、何故かドアを閉めて部屋を暗くしたと思うと、とうとうと神話を語り始めた。一時間ぐらいは聞いていたと思うがそれさえ分からなくなるような異様な熱気に三人とも疲れ果ててしまった。


面白い芸も見せてもらった。一見下品な芸だが由緒正しいサドゥにとってはなくてはならない力技である(サドゥの派によって違う)。露骨なのであまり細かい描写はしない。まず二十キロ以上もあるような大きな石を拾ってきてこれに紐を巻きつける。そして紐のもう一方のはしを自分の杖にしばりつけて固定する。石と杖をつないだ紐の長さは約三十センチである。そしてやおら下半身を丸出しにして自分のリンガ(男性器)を棒に巻きつけ、この石を持ち上げるという珍芸である。一応軽く両手で杖を支えているのだが、彼の主張するところではすべての重みを彼の性器で持ち上げているというのだ。

誤解のないように書くと彼はリンガを勃起させているわけではない。よく分からないが、リンガを平べったくして棒に二重ぐらいに巻きつけているのだ。写真は掲載しない。あまりに下品だというのもあるが、写真で見るといかにも手で支えているように見えてしまうからだ。実際に見てすべて納得したわけではないが、少なくとも普通の人が真似できる芸ではない。

この珍芸はじつはさほど珍しいものではない。かつて二度同じ芸を見た。リンガを巻きつけた棒にトラックをつないで引いているのも見たことがある。これを使うことにこだわるのはシヴァがリンガ、すなわち男性器の神様であるからだ。サドゥは小さなシヴァだから当然それを模倣しようとする。だからこの芸にはワイセツな意味合いがあるわけではない。とはいえ珍芸なので、これを外国人旅行者などに一回いくらで金儲けしているサドゥもいる。


「じつはもう一つ技があるんだが見たいか?」とサントスナートは得意気である。見たい見たいという三人の意見を聞いて「では明日の朝見せてやろう」ということになった。そして翌日である。しかしサントスナートババは心なしか元気がない。

「昨日言っていた技だがうまくいかないかもしれない」と珍しく弱気である。それでも挑戦するというので彼のあとをついていった。

昨日の珍芸はさすがに室内で行ったが今日も技は外でも構わないらしい。ワイセツなものではないということだ。彼はしばらく森の中を物色したあと一本の枝を持ち帰ってきた。しばらくそのしなり具合を確かめたあと口をあけ、この枝を喉にゆっくりと差し込んでいく。十五センチぐらい入ったところで「うぐぐぐ〜」と苦しげな声を出して枝を抜き出してしまった。失敗らしい。でもやりたいことは分かった。胃の洗浄である。胃カメラのチューブを麻酔などに頼らずしかも自分自身で突っ込めるということなのだ。

「ダメだ!昨日飯を食いすぎた」と落胆しているが、十五センチ入っただけでもすごい。

「いや〜、サントスナートババがすごいサドゥだってことがよく分かったよ…」とかなんとか慰めたら彼の機嫌もようやく戻った。


実際彼は正真正銘のサドゥーであった。珍芸は二つも持っているしタパヴァンに登る勇気も力も兼ね備えている。昨日の散歩でも怖い顔をして歩いていたから機嫌でも悪いのかと思って、それでもカメラを向けていたら、彼は突然ジャンプして道端の鉄柱を登りはじめた。足は使えないから腕力だけで登るのだ。そして一メートル以上の高さから再びジャンプして片足で着地する。もちろん変人ではあるが、エキセントリックな魅力に満ち溢れたサントスナートババはまさに小さなシヴァであった。


サントスナートババとの付き合いもそろそろ終わりだ。考えてみれば出会ってからすでに十日を超えている。わがままサドゥとよく付き合ったものである。最後の最後まで、まるで接待旅行のような有様だったが、僕にとって彼らサドゥは大切な被写体であり、お客様である。これをももてなすのは当然のこと。何ごとも「ギブ・アンド・テイク」である。

サントスナートババの生い立ちについても少し触れておきたい。彼もほかのサドゥと同様、自分の過去について語ることがほとんどなかったし、僕からもあえて尋ねることはなかった。それでも一週間以上付き合えば多少の事情は自然と知れてくる。

彼の生まれはインド中央部デカン高原のある小さな村であった。裕福ではなかったそうだが普通に両親があり兄弟があった。彼が片足を失ったのは子供の頃だと思うが僕はその質問を一度もしていない。彼はたぶん子供心に自分の運命を悲観していたことだろう。それで十五歳ぐらいのときに家を出てあるサドゥの弟子となった。それはもちろん彼自身の意思でもあった。サントスナートババの言葉を借りると「神の声を聞いた」そうだ。六年間の修行を終えたあと、彼は師匠のもとを出て放浪の旅に出た。旅は困難の連続であったようだ。

「最初は自分の体をうまく支えられなかったんだよ」と彼は言った。

山のなかで死にかけたこともあったという。そんなときにある人に家で何日も世話になってな〜、と珍しく遠い目をした。数年前には一度実家に帰省している。現在の年齢がたしか三十七歳だから二十年ぶりぐらいだったのではないだろうか。兄弟は家族を持って元気で暮らしているそうだがお母さんは数年前に亡くなっていた。タパヴァンから下りるときに彼はこんな言葉を思わずもらした。

「お母さんをここに連れてきたかったな〜」

サントスナートババの人生は片足を失ったことで大きく変わった。もちろんそれがよかったかどうかは誰にも分からない。ただ彼は片足であるハンディキャップをのりこえ、終わりのない旅を続けるのだ。彼だけではない。サドゥという存在は本来そうした宿命を背負って生きている。みんなどん底を経験している。貧困、家庭問題、人間関係、…絶望の淵をさまよい歩いた末にようやくたどりついた場所がサドゥであった。そこでふたたび大地を踏みしめ、シヴァを通して大地とそれを取りまく森羅万象の意味を知る。そこに絶望した人間たちに与えられた起死回生の最後のチャンスがあるのだ。

サントスナートババと別れる朝になった。

「これからますますパワーアップしてビックサドゥになって欲しいな」

「もちろん。ビックサドゥになったら日本にも行くよ」

「いや〜、でも日本はサドゥでも大麻禁止なんだけど…」

「ノープロブレム!一ヶ月くらいは吸わなくてもやっていけるよ。…おっと忘れていた。ビックサドゥになるにはやっぱり家は必要かな。俺だけの家じゃない。サドゥの家を作って俺がボスになる。今度来たときはぜひ援助してくれ」

まったく飽くことのない虚栄心である。いつかビックサドゥになることもあるだろうか。




前回の話 次の話

chaichai > サドゥを探しにOm Namah Shivaya>サドゥの珍芸



(C)shibata tetsuyuki since2009 All rights reserved.
全ての写真とテキストの著作権は柴田徹之に帰属しています。
許可なく使用および転載することは禁止です。ご留意ください。