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小さなシヴァ

旅行記「サドゥを探しに」
第二章 ガンガー源流編の第七話





一時間ほど急坂を登って五人はようやくタパヴァンに到着した。そこは今までの荒涼とした風景とは打って変わって緑の絨毯が敷き詰められた自然の庭園である。標高は約四千五百メートル。すぐ目の前には高さ六千メートルを越えるシヴァリンガがそびえたっている。天上の楽園にふさわしい景観だ。少し休憩して今日の宿泊地に向かう。泊まるのは「お母さんの家」を意味するマタジーアシュラム。自然の洞窟を利用して作った簡素な家で、その名のとおり一人のおばさんが経営している。経営しているといっても決まった料金システムがあるわけではなく、いわばもぐりの宿泊施設である。

夕方近くなってアマルナートババをのぞいた四人で散策に出る。サントスナートババは疲れも見せずに自然の庭園のなかを精力的に歩き回る。このパワーはいったいどこから生まれてくるのだろう。念願のタパヴァンにやってきて、興奮冷めやらぬといったところか。

丘のところまで来て彼は立ち止まり僕を振り返った。

「片足でタパヴァンに来たサドゥーは俺がはじめてかと思っていたが、なんと二人目なんだな〜」と悔しそうな顔をしてみせる。

彼の飽くなき虚栄心は止まることがないようだ。ただし虚栄心こそがサントスナートババのパワーの源泉である。それを悪いとは思わない。サドゥーの本質は力、つまりエネルギーであると僕はずっと考えていた。彼らの信奉するシヴァもまた力を象徴している。


シヴァがリンガ(男根)として祭られているのはよく知られている。リンガはすべてを生み出す源なのだ。この世に存在するすべての力はシヴァのリンガを通じて発現されるとシヴァ派のサドゥは主張する。そして「我々サドゥこそシヴァの直弟子で、小さなシヴァである」と…。サントスナートババも度あるごとにそんな主張を繰り返していた。だから彼は危険を賭してタパヴァンまでやってきたのだ。

サドゥはシヴァをやみくもに拝んで満足しているわけではない。自分自身がシヴァにならなければ意味がないのだ。だから彼らは力、エネルギーを信奉する。ヨーガで自らを鍛え、社会を敵に回してもやりたいように自由に生き、戦うシヴァのように荒々しく振舞って自分を鼓舞していく。普段はいいかげんに暮らすサドゥも戦うときは戦わなければならない。だから人から恐れられ、そして尊敬される。何と戦うかは人それぞれ、サントスナートババの場合は斜面と戦いタパヴァンに登ることが一番だった。


僕は小さなシヴァを探していた。そして出会ったのがサントスナートババだった。僕は彼に、僕が思い描く理想的なサドゥの姿を見出せるのではないかと期待していた。だから旅に誘ったし、昨日彼のタパヴァン行きをあきらめさせようと考えていたとき、じつは少し失望していた。大げさに言えば、死を賭してもタパヴァンに挑戦して欲しい、というのがひそかな本音だったが、それをアマルナートババに言うことはさすがに出来なかった。

彼がタパヴァンに立ったことは僕にとっても非常に大きなことだった。サドゥの真髄をこの目で見た。シヴァの本質にわずかであっても触れることが出来たのである。

サントスナートババの独壇場はさらに続いた。今度はシヴァをたたえる歌を大げさな身振りで歌い始める。丘の上に一本足ですっと立った姿は伝説に登場する聖仙のようである。彼もそれを意識しているのだろう。歌もうまい。今度来るときは録音機でも持ってくるかな。ただし彼はますます有頂天になって、今度はヒマラヤを登ると言い出しかねない。



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