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聖か俗か

旅行記「サドゥを探しに」
第三章 ケダルナート編の第五話



昼近くになって食事をするため丘を下った。ずっと座り続けていてはスミルナートババもさすがに迷惑するかもしれない。外の空気も吸いたかった。今日は快晴である。

あいかわらずサドゥの姿が多い。シヴァの聖地だけあって多くはシヴァ派である。つまりナガババかナートババということになる。僕が写真に撮るのはほとんどが彼らシヴァ派のサドゥだが普段からそれを意識しているわけではない。何かを感じられれば誰でもいいのだ。ただ結果的にはシヴァ派のサドゥばかりを追いかけてきた。

シヴァ派に対抗するのはビシュヌ派である。見分けるのは簡単である。シヴァ派のサドゥーが額に横三本の線を描くのに対してビシュヌ派のサドゥは縦線、あるいはVの字のような紋様を描く。あまり付き合いがないのでよく分からないが、温厚で物静かなサドゥが多い。旅行者に変に近寄ってくる類もほとんどいないし、写真を撮っても金を要求されることはあまりない。要求されたところでチャイの一杯もおごれば喜んで帰っていく。

クティアを構えることは少ないようだ。多くは聖地を転々としながら巡礼の旅を続ける。ひたすら神々の名を呼び熱心に祈りをささげる姿をよく見かける。そこにあるのは僕たちが普通に想像する理想的な信仰の姿である。まさに宗教大国インドの一側面なのだが、彼らにカメラを向けることはじつはほとんどなかった。

対するシヴァ派はこれまで見てきたとおりである。クティアや地面に座り込んでチャイを飲み、そして大麻を吸いながら一日の大半を無為に過ごす。その挙句、近寄ってきた旅行者にタカって金を巻き上げようとする者もいるから「格好ばかりで中身は俗物だった」と失望する旅行者も結構多い。そんな話を振られた場合は「まあ、そうですよね…」とお茶を濁すしかないのだが、これはあくまで表面的な話。いちいち議論するのが面倒だから相手にあわせているだけで、僕個人の気持ちとしては断然シヴァ派なのだ。

シヴァ派のサドゥーは荒々しい。だから付き合って安全かどうかを注意深く観察するのは当然だが、俗物かどうかはそれほど気にならない。というより、俗物である僕にそれが分かるわけがない。僕が気にするのはサドゥの格好、顔、表情である。写真を撮るのだから、軽薄な言い方をすれば、絵になるサドゥでなくてはならない。当然、サドゥの持つオーラ、つまり内面からにじみ出る強いエネルギーを感じなければ撮りたいとは思わない。僕はサドゥという役者を探しているのだ。例えばこんなサドゥがいた。



ヒマラヤを仰ぎ見る草原を歩いていると遠くにオレンジ色の衣をまとったサドゥを見つけた。どんなサドゥかは分からないがとりあえず小走りで追いかけてみる。撮るか撮らないかは顔を見てからだ。サドゥまでの距離が百メートルぐらいになった。さらに近づこうとして僕はある異変に気がついた。立ち止まったサドゥがオレンジ色の衣をまくしあげ、中から現れたふんどしまで外しにかかった。なんと野糞をしようとしているのだ。だから道なき道を歩いてこんな場所までやってきたのか。僕は今来た道を急いで戻った。野糞を追い掛け回すとは正気の沙汰ではない。

五分後、野原で呆然としていた僕の方角へ先ほどのサドゥが戻ってきた。どうしようかと一瞬悩む。彼は野糞をしたばかりなのだ。そんな状態で写真を撮らせてくれと言われたら、やはり相手も不快に思うだろうか。とはいえ、いちいち相手の気持ちを気にしていたら写真などやっておれない。撮りたいサドゥかどうかの確認もまだ出来ていないが、とりあえずは挑戦あるのみ。僕は断りもせずにレンズを向けた。それに気づいたサドゥはにっこり笑いながら僕に近づき、そばにあった岩の上にのんびりと腰を下ろした。すっかり悟りきっているのかあるいはたんにボケているのだろうか?




しかしファインダーの中の姿は思ったほどではない。適当に撮ってあきらめるか、と何度かシャッターを切ってみせると突然サドゥは立ち上がって僕を制した。

「待て!ワシはナガババだ。ちょっと待て」と言うと同時にあっという間にオレンジ色の衣を脱ぎ捨てふんどしも投げ捨て一糸まとわぬ素っ裸になってしまった。

「ナガババは裸でなければならんのじゃ」。

そういって、唖然としている僕に向かって悠々と瞑想ポーズをとってみせた。一瞬僕はたじろいだ。野糞をしたばかりではないか。とはいえ、いつまでもぼんやりしているわけにもいかない。この手のサドゥはおそろしく気が短い。まずは何も考えずに写真を撮ろう。数十秒の戦いである。

僕は必死でシャッターを押し続ける。ボケているのかと思ったサドゥの顔は見る見る変化して聖者の顔になった。そして予想通り十枚も写真を撮らないうちにサドゥは立ち上がった。終わりである。すぐにふんどしをつけオレンジ色の衣を体に巻きつけもとの姿に戻った。




「いい写真が撮れたよ。ありがとうございます」と礼を言うと「それはよかったな。では金をよこせ!」と迫ってくる。僕はすばやく五十ルピー札を差し出したが「駄目だ、百ルピーだ」とさらに迫ってくる。仕方がないか。すでに撮ってしまったのだ。僕は百ルピー札を差し出した。

百ルピーというのは日本円で約270円、インドでは安宿に泊まれるぐらいの金額でもある。貧乏旅行者が聞けばちょっと驚くような値段だが、僕の経験から言えば相場の倍程度である。つまりはじめに渡そうとした五十ルピーぐらいが妥当なところだ。

由緒正しいナガサドゥがヒマラヤを背景に瞑想ポーズをとってくれたのである。しかも野糞の直後に素っ裸である。僕が豊かな日本から来た旅行者であり、しかも(一応は)プロのカメラマンであるのを加算していけば100ルピーでも安いぐらいである。彼が要求したのは多く見積もってもその倍である。法外というような値段ではない。

ところで話は戻るが、このサドゥはいわゆる「俗物サドゥ」なのかどうか?意見は分かれるところだが僕はそう思っていない。この程度の金のやりとりで俗っぽいというならシヴァ派のサドゥはほとんど俗物である。金は問題ではない。金を要求しないシヴァ派のサドゥだっていくらでもいる。それよりも「写真に撮られるなら服はいらん」と何の躊躇の見せずに素っ裸になってみせた心意気に僕は感じ入った。

ヒマラヤを前にしてあっという間に素っ裸になるサドゥが聖なる存在かどうかは分からない。でも普通ではない。普通ではない世界に生きているからサドゥは特別なのだ。サドゥの人間性を否定するわけではない。たまには彼らの人間臭い生の声に触れるのも悪くはない。でもそれだけでは物足りない。わざわざサドゥを探しにヒマラヤくんだりまでやってきたのだ。僕ら凡人には思いもよらないような境地を見せてほしい。



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