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暗い谷間

旅行記「サドゥを探しに」
第一章 バドリナート編の第一話




丘を登りきると道はさらに暗く大きな谷間へと続いていた。両側には険しい山肌が迫り、空は厚い雲に閉じ込められている。緑濃い草原と巨岩が点在する谷間は不気味なほど静まり返っていた。帰ろうかな、と何度も考える。空模様からすれば雨が降ってくるのも時間の問題である。雨具はあるが、ヒマラヤの暗い谷間を一人雨に濡れながら歩くというのもなんだかつらい。やっぱり帰ろう、と思ったとき、巨岩の群れの中にふと小さな旗を見つけた。薄汚れた赤地の旗、ヒンドゥー寺院のシンボルである。すっかり自然に溶け込んでいたためずっと気が付かなかったのだ。

寺院といってもこんな山奥である。立派なものではないだろう。岩や洞窟を利用した祠か、あるいは目指すクティアがあるのかもしれない。

クティアというのは、インド大陸をうろつくサドゥと呼ばれる行者たちの仮小屋のことである。こうしてヒマラヤ山中の辺境地を旅して人気のない谷間などを歩くのは、ひとえにサドゥの写真を撮るためであった。

いったん下りかけた山道を引き返し、巨岩がごろごろする場所にたどり着いた。とても人が住めそうもない場所だったが耳を澄ますと人の声がする。岩と岩のあいだに入り口を探していると、上の方からこちらを呼ぶ声がした。見上げるとそこにあやしげな人影が…。長いヒゲと髪の毛を傲然と生やした仙人のような男がこちらをじっと見下ろしている。サドゥである。

暗い谷間を一人さまよい歩いた甲斐があった。サドゥ自体はヒマラヤ山中の聖地にたくさんいるが、誰でもいいというわけではない。僕は人里離れた暗い谷間のなかに暮らすサドゥを探していたのだ。


サドゥと呼ばれる行者を実際に見たのは初めてのインド旅行でのこと、一度見れば決して忘れることの出来ない奇妙な格好の男が駅のプラットホームを悠然と歩いていた。

乱れた長い髪の毛をぐるぐると縛り上げ、手にはシヴァ神を象徴する長い槍を持ち、薄汚れたオレンジ色の袈裟衣を体に無造作に巻きつけ右肩をさらけ出している。まるですべてを見通すように爛々(らんらん)と輝く瞳とその物々しい雰囲気に僕は釘付けになった。吸い寄せられるような魅力を感じたが、声をかける勇気は当時なかった。僕は呆然と彼の姿を見送っていた。

あれから十五年が経過した。インドやネパールの写真をずっと撮り続けてきたのだが、僕は何故か満足できないでいた。何かを忘れているような気がしていた。それが何であるのかをガンジスの岸辺で突然思い出したのが一年前の夏。写真を始めようと思ったきっかけはあのサドゥの姿ではなかったのかと。すっかり遅くなったが、今こそサドゥを撮ろう。という訳であらためて始めたガンジス川の旅も今回で三度目になる。

二度の旅行ではガンジス川流域のヒマラヤを一度、そして中下流域を一度撮ったが、夏になって再びヒマラヤに戻ってきた。サドゥの本場であるヒマラヤ山中を歩いて大物サドゥを探してみようというわけだ。


ところでサドゥとは何者なのか? 基本的には坊さんの一種であるが、例えば日本やタイの坊さんとは全然違う。出家して髪の毛を剃るまではあまり変わらない。しかし、いったん丸坊主にしたサドゥはその後、一転して髪の毛とヒゲとを傲然と伸ばし始める。そして十数年を経て、まるで仙人のような姿へと変貌を遂げるのである。

生活も変わっている。寺暮らしをする者はごくわずかであとは基本的に野放しである。人生自体が放浪なのだ。旅をするのも自由ならどこかの仮小屋で暮らすのも自由、一人でいようが徒党を組もうがそれも自由、極端な言い方をすれば、生きるも死ぬも自由である。その点、野良犬とあまり変わるところはない。

それでどうやって生きているのか不思議になるが、食えなくて死ぬサドゥというのは聞いたことがない。乞食のように寺の門前で座るサドゥがいる一方で、その辺に小さな祠や仮小屋を作って訪れる信者たちのお布施でのんびり生きていくサドゥもいる。聖地に行けば彼らを食わしてくれるような場所が必ずあるし、旅の最中であれば飯屋の店先などで食事や小銭を強要して日々の糧を得る。つまるところサドゥというのは、ゴロツキと乞食を二で割ったような存在だと考える人もいる。ただしサドゥの側から言わせれば「自分たちこそが神々を知るもの」という強烈な自負がある。その自負がいったいどこから生まれてくるのかを知る人はじつはほとんどいない。ただサドゥの異様な格好に人は恐れをなしているのだ。

とはいえサドゥも千差万別さまざまなタイプがいる。これがサドゥだ、という決まった形があるのかないのかも分からない。自由気ままに暮らすサドゥーは個性も強い。付き合うサドゥが違えばその印象もまるで違ったものになってしまう。 僕は一人一人のサドゥとじっくり付き合い、出来る範囲でその肉声を聞き届けようと考えていた。




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