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インド独立の父マハトマ・ガンディーは、じつはカースト制度に反対ではなかったと聞いたことがある。たしかに不可触民(ハリジャン)に対しては同情的であったが、カーストの解消までは考えていなかった、ということだ。インドを知らない人にとっては不思議な話である。

そういえば、最近ガンディーの評判はあまり良くないらしい。現在インドが貧しいのも、古臭い伝統にがんじがらめにされているのもガンディーの責任では、という訳である。まあ、当たっているといえば当たっているかもしれない。当時のガンディーの行動というのはインド以外の国では到底受け入れられるものではない。

非抵抗主義、塩の行進、断食などといった、およそ現代とはかけ離れた戦略でインドを独立に導いたあとは、外国からの輸入を極端に制限し、完全な自給自足を目指した。ガンディー自身は聖者のように清貧に徹し、伝統的な方法で糸をつむぎながら生活したのだ。

金に目が眩んだインド人がガンディーを非難するのはよく分かるが、そんなことより、当時のインド人はよくガンディーについていったな、ということにむしろ驚く。他の国なら、ガンディーはただの奇人で終わっていた。でもインドは違った。ガンディーを受け入れる素地がこの国には十分にあったのだ。それは今だってそれほど変わっていないと思う。


カルカッタ、カーリー寺院近くで花を売る女性

さて、ガンディーとカーストの話であるが、ガンディーがどうしてカーストを否定しなかったかは多分はっきりしている。ガンディーはインドの古い聖典に書かれているカーストの定義を信じていたのだ。その定義とは、次のようなものだといえるだろう。

カーストにはたしかに上下関係がある。でも、それは絶対的なものではない。おそらく、それは過去の因縁によって選り分けられ、そして人は仮の姿として、あるカーストに生まれるのだ。彼らは、それぞれこの世で果たすべき責務を持っている。その責務をまっとうした人には次の段階が用意され、反対にそれを放棄したり怠ったものは、例えば俗っぽく言えば、来世は虫になったりしてしまう。だから、大切なのはあなたの行為であり、(神から)与えられたものを素直に受け取りなさい、というわけだ。

インドでは、古来から欲望を激しく否定する宗教がいくつも発展してきた歴史がある。また、この世は所詮、幻(マーヤー)である、とする考えも強い。この世はビシュヌ(ブラフマン)神の一昼夜の夢であり、ビシュヌが目覚めれば、世界は一瞬にして夢幻のように消えてしまうのだ。こうした世界観のなかで、もし確固たるものがあるとすれば、…それは永遠なる神の領域である、ということになるだろう。カーストの問題は、こうした特殊な宗教思想のなかで、まるで網の目をすり抜けるかのように非難を免れた結果、現在にいたるまで存続出来た、ともいえるかもしれない。

現在、インドの憲法ではカーストは否定され、一応はないことになっているが、それはたんなる建前に過ぎない。一度、タール砂漠のある街に宿泊したとき、ホテルの宿帳の記入欄に「カースト」の文字を見つけたことがあった。「書く必要があれば書くが…」と冗談で言うと、「いやあ、昔のスタイルだから…」と受付は誤魔化したが…。

インド人からカーストを訊かれることもある。彼らの多くは日本にも当然カーストがあると思い込んでいる。彼らが名前を訊きたがるのも同じ理由によるものだ。カーストは彼らにとって、まったく当たり前のものになっている。良い悪いの話ではない。

昔、ある日本人が「カーストは絶対に許せない」と息巻いていたのを思い出すが、日本にも差別や区別はあるのだ。アイヌ等の民族差別だけではない。家柄、財産、知能、運動能力、容姿、…そこに差別がないとは言い切れない。最近はかえってそれを助長するような傾向も強いのでは…。「セレブ」という言葉がまかり通り、「勝ち組負け組」がはっきりとした姿で一般に浸透しつつある。また、「血液型」「占い」「守護霊」など、決して変更の出来ないものが大きな話題になっている。

ただインドと日本の大きな違いは宗教観にある。熱心不熱心といっても良いが、それだけではない。すべてのカーストにはそれぞれ固有の神がいるのでは、と僕は思っている。とくにそれは、下位カーストの人々のあいだでとくに感じられるものだ。


パキスタン国境沿いの不可殖民の村にて。

デリーをはじめとする大都市の片隅で何度も見かけた光景がある。完全に不可触民と思われる人々が、裏通りのどん詰まりのような場所で、めいめいが缶など太鼓代わりになるものと棒とを持ち寄り、激しいリズムで打ちまくる。人々は髪の毛を振り乱しながら次第にトランスの世界へと身を投じていく。その先に現れるものが何かは分からない。それはときにシヴァ神であったり、あるいはその他の鬼神(シヴァは本来、鬼神であったとする説もある)であるのかもしれない。鬼神は、あるいは彼らの「守護霊」でもあり、いつも寄り添うように彼らを見守っているのかもしれない。おそらく、彼らがカーストを捨て去るとき、彼らの「守護霊」も彼らを見放すに違いない。

カーストはその人の出自を意味するものだ。彼らの魂も「守護霊」も、彼らのカーストの中に宿っているものだ、ともいえるだろう。また現実問題として、カーストは社会保障の役割をも兼ねている。独立心の乏しい多くのインド人にとって、カーストによるつながりが社会生活を送る上で必要不可欠のアイテムになっていることも事実である。インド社会はカーストに依存し、そしてがんじがらめになっている。

思うに、現在なおカーストが機能しているのは結局はインド人の強い支持のあらわれではないか。それを許容しているのは上位カーストの人々だけではない。もし、下位カーストの人々がそろって武力蜂起したら、カーストなんてすぐに崩壊するに違いない。でも実際にはそうはならなかったし、これからもないだろう。あとは時間がゆっくりと解消するのを待つほかないのかもしれない。

インドのカースト事情は非常に複雑であるが、この章ではその良し悪しを書くつもりはない。もちろん異なるカースト間での差別問題は、場所によっては非常に深刻である。でも、それはあくまでインド社会自身の問題であるし、旅行者風情がどうこういう話でもないと思うので、とくに触れなかった(04年秋)。


(補記)
カーストの基本的なことに関して少し書いておく。カーストという言葉は本来はインドにはなかった言葉で、ごく最近、植民地時代から使われだしたものだ。また、教科書にあるようないわゆる四姓、バラモン(祭祀)、クシャトリア(武士)、バイシャ(平民)、シュードラ(奴隷)といった分け方はあまり一般的ではなく、むしろ「生まれ」を意味するジャーティという単位に分かれている。一説によると、これらの異なるジャーティは全インドで数千にも細分化されるともいわれている。また、これらの人々の下にはハリジャン(神の子の意味)、いわゆる不可触民がいて、不当な差別を受けているとされる。その数は数億人ともいわれ、あらゆる下々(しもじも)の仕事を請け負っている。






サドゥ 小さなシヴァたち

インドの放浪修行者
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