奥さんをはじめとする村人は、最初はこの話を疑っていたが、彼の茫然自失の表情から、やがて、そんなこともあるのかと思うにいたったという。おじいさんは、その後はいなくなることもなく奥さんと仲むつまじく村で暮らしたという。というより、当時はまだ存命中で、90歳になっても畑に出て働いている、と聞いた。今から思えば、そのおじいさんに会えばよかったと少し後悔している。ただ、会いたいと言っても、この話をしてくれた人物は適当に誤魔化していたから、もしかすると、これはその地域で起こった、彼とは関係のない、ある出来事だったのかもしれない。いずれにしろ、ネパール版「浦島太郎」といった話であり、興味深い。ネパールの山奥深くの村には、今もさまざまな伝説が受け継がれているに違いない。
ついでにお化けの話もしてみよう。これもある村で、とある人物から聞いたものだ。彼が子供の頃、夜の山道を友達と歩いていたときのことだ。ネパールの普通の村では、今も電気がないのが当たり前だから、この日もあたりは真っ暗な闇に閉ざされていた。林の入り口にさしかかったところ、何か恐ろしく寒気がして、一同の足が止まった。すると、夜の闇の中から、直径3メートル以上もの巨大な火の玉が飛び出してきたという。子供たちは驚いて、一目散に逃げ出したが、その後、ある子供がいなくなったとか、あるいはおかしくなったとか…。
ネパールの山村を旅していると、だんだんこの手の話に違和感を覚えなくなってくる。毎日、山道を歩いて峠の茶屋で一服し、民家でダニやノミに悩まされながら眠る毎日だ。食事は2食、同じようなカレー、トイレのない山村では、夜でも真っ暗な林で用を足すしかない。巨大な火の玉の話を聞けば、その夜はトイレも行けなくなってしまう。夜の闇に耳を済ませば、異界からのかすかな息づかいが聞こえてきそうだ。山奥深い谷間には、社会から完全に隔絶された世界で生きる小さな集団もいるのだ。僕は彼らから魚を買ったこともある。彼らは気が弱いから悪さはしないが、日本ならさしずめ河童といったところか…。(2004年秋)