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日本人はインドからやってきた!?

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先日、言語学者である大野晋さんの「日本語の起源」(岩波新書)を読んだ。この本の内容は、簡単に言えば、日本語の起源は南インドの古代タミル語にあるというものだ。対応する言葉は最低数百以上はあるのだという。詳細は実際読んでもらうほかないが、農業に関するものや古代日本の思想や宗教に関する言葉にも密接な関連性が見られるという。一月十五日に行うトンド焼きや短歌、墓の形状なども例外ではなく、そうは結論付けてはいないものの、はっきりいってしまえば、日本の弥生時代、あるいは最初の文明はタミル人の来航と共に始まった、とも解釈できる内容だ。

稲作は雲南あたりから日本に来たのでは、とこれまで漠然と考えていた。雲南には納豆も押し寿司もあり、共通点が多い。なんといても顔が近い。雲南続きで言えば、例えばインドのシッキムやダージリン、あるいは東ネパールにはやはり納豆がある。そば粉もネパール起源だと何かで読んだ。僕自身もアンナプルナの谷間でそば粉を練ったものを食べたことがある。いずれにしろ、雲南周辺が弥生文化の発祥の地だと想像していたが、実はほとんど言葉の関連がないのだという。

「日本語の起源」では、カミ(神)やアメ(天)、マツル(祭る)などといった宗教用語が実はタミル語起源なのだと説明される。ということは、神道の起源はヒンドゥー教ということになってしまう。

デカン高原にサンチーという有名な仏教遺跡があるが、その門の形状が日本の鳥居にとても似ている。これはタミルではなさそうだが古代インド文化の象徴である。時代は紀元前2世紀から1世紀というから、まさに弥生時代全盛。また、インド全土に仏教を興隆させたアショーカ王はサンチーの遺跡より百年ぐらい古い人だが、実は滋賀県にアショーカ王の石塔なるものがあるのだという。アショーカ王の石塔というのは、仏舎利(仏陀の骨)を収めた石塔をインド各地につくったものの総称だが、それが日本にあるというのだ。無論、一般的には無視されているが、アショーカ云々はともかく、日本でもっとも古い石塔であることは専門家も認めているらしい。

世界遺産に指定された熊野の那智大社も裸のインド人によって開かれたという伝説を持っている。そのインド人は、滝を見て「ナギ」と叫んだが、それが日本人の耳には「ナチ」に聞こえたのだという。ちなみに「ナギ」は川を意味する。それにしても、裸のインド人というのがとてもリアリティーがある。上半身裸で暮らす男というのはインドにはいくらでもいる。ヒンドゥー教やジャイナ教では、素っ裸の修行者も珍しくない。あの渓谷を裸のインド人がわらわらと歩き回っていたかと思うと不思議な気がする。

彼らインド人の子孫は、その後、大峰で修験道を開き、伊賀や甲賀で忍法を編み出したのかもしれない。あの辺の特殊な文化は本物のインド人が指導しなければちょっと難しいように思える。そういえば、戦国時代の忍術使い果心居士(かしんこじ)もお父さんがインド人だった。さまざまな幻術を見せ敵を翻弄したというからますますインド人臭い。

日本とインドの関係はどうやら一筋縄ではいきそうもない。ただ、多くのインド人が古代日本に来航し、言語や風習にまで大きな影響与えたというのは間違いなさそうだ。来航したインド人集団の規模は相当なものだった可能性もあり、そうであるなら僕らの血の中にもインド人の遺伝子がかなり入り込んでいることになるのだが…。(2004年秋)







サドゥ 小さなシヴァたち

インドの放浪修行者
サドゥの本へのリンクです。
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